警察官の買春の件については、他人が非難すると(例えば奥密教や法王庁。ロシア正教は法王庁の傘下にあるのか?どうか?は知らない)持ちださなくてはならなくなると云う意味であって警察官を非難しているのではありません。私は、自文の宗教を説いていると公言しているかのだから、余計ないさかいは避けなくてはならないのです。キリスト教がこの世の権力に拘束されていれば宗教裁判で処刑も可能です、拘束されていなければ処刑できません。又、アイデイアに関しては、盗んだものとすれば、この世的には解決可能です。神のさじはとうなるか?行ってみなくては解らないことです。(この世の権力から独立しているか?どうか?)私は、キリスト教徒ではないのでキリスト教に「さじ」の依頼を行わなければ、法王庁の宗教裁判を受ける謂われはありません。但し、原則です。
この世的権力に拘束されていれば、宗教的な原則は意味がありません。したがって、「さじ⇔本当はさじではなく審議」は依頼しませんが、アイデアは先取りで利用していただいても結構です。(キリスト教国でも他の宗教もある)但し、総理大臣が「さじ⇔審議と判決」を依頼すればどうなるか?知りませんが、本当の「さじ」が現象化するとしか答えられません。審議なら私は一般人としなくてはならないでしょう。高橋佳子や大川隆法は審議の対象になるでしょう。(政府が宗教法人として認めている)尚、私は「の存在を信じる」としていますから、天罰を、私の教義に対するの反作用とすることも間違いではなくなります。しかし、 宗教裁判では罰せられるかも知れません。
以下については記す必要のないことですが、無意味な批判をさけるために記すことにしたものです。但し、宗教裁判では問題があるかも知れません。法王と云えども、人間であり、年齢は私より幾分多いでしょうが、人生体験も知能指数も私を大きく上回ることはないのです。客観的な奇跡も体験してはいないと思います。私は主観的な霊的現象も体験しています。宗教裁判と云えども人が人を裁くことに違いありません。想念上の現象ですが、何を根拠に差別して批判するのかと云いたくなります。(実際の批判がなければ関係ありません)先入観での批判は間違いの基になります。お気を付け下さい。上記主張に対して腹が立つ人がいても自己責任であり、私は良心に対して詫びる必要はないことです。神の裁きを尺度としたものであることをお忘れなきよう、お願いします。